秋葉原日記 (ライブラリ)

伊集院静『なぎさホテル』

 電子書籍版である。
 iPadの電子書籍在庫はまったく貧弱で、音楽や映画など種々のアプリケーション購入の窓口となるアイチューンズ(iTunes)にはそもそも書籍のカテゴリはなくて、設けられているのはオーディオブックだが、これは外国語教本などを扱っている場所。
 また、アイブックス(iBooks)というコーナーがあるのだが、現在は無料で入手できる英文書が申し訳程度に並んでいるだけ。将来的にはここがiPadにおける電子書籍の取扱窓口になるのだろうと思われる。
 しかし、購入したiPad2では様々な使い方を試しているところであり、電子書籍についてもiPadaではどういうものか興味があり、あちこちと探し回った結果、かろうじてゲームなどを扱っているアップストア(App Store)に電子書籍が含まれているのを見つけた。ただ、とても音楽や映画のような充実したライブラリーとはなっていない。結局、iPadは電子書籍読書端末としてはあまり考慮されていないのかもしれない。
 そういう中で探し出したのが本書。アップストアから見つけた。ダウンロード購入価格1,000円。
 初出が約10年前で、電子書籍化にあたり加筆・修正を行った上、単に文字情報をデジタル化したのみならず電子書籍らしい工夫と体裁がいろいろと施されている。
 表紙は動画になっている。砂浜に波が寄せられており、潮騒が聞こえる。そこに著者自身の次のようなナレーションが入る。
  遠い昔、湘南になぎさホテルという伝説のホテルがあった。
  私はそこに八年余り暮らしていた。
  懐かしい、夢のような日々だった。
 続いてタイトルが入り、井上陽水が歌う主題歌(「魔力」)流れる。
 なかなかしゃれたイントロである。
 内容は著者の自伝である。
 著者は29歳の折、二人の娘がいる家庭を崩壊させ、職業も捨てて旅に出たところ、流れ着いたのが逗子のなぎさホテルだった。
 当時のホテルは、「スペイン風の美しい造り、中央の時計台、海を望むレストランの赤い屋根」が特徴の古い木造2階建てだったらしい。
 ここに著者は結局8年余りを暮らすことになる。
 Iさんという支配人、Yさんという女性の副支配人などとホテルを取り巻く人々がやさしく居心地がよくてつい長逗留となってしまったのだが、宿泊代が滞っても支配人は「いいんですよ。やりたいことをやりなさい。こんなちっぽけなホテルの部屋代なぞなんとでもなります」と気にしなかったらしい。
 ここで著者は小説を書くことになる。
 しかし、「小説を何かたいそうなもの」とは考えなかったようだし、「傲慢なものがどこかになければ、とてもじゃないが文学というあやふやなものに確信を持ったり」できなかったし、作家となったのも「やってみたい、やってみよう、となったまでのことだ」と述懐している。
 ゆったりとした時間が流れている。しかし、中身は率直で赤裸々である。それでいて登場する人たちへの配慮が行き届いているのもこの自伝の特徴である。この著者の作家としての強さとやさしさが感じられる。
 また、著者自身が振り返って「私という人間が、元来のいい加減さや性悪な気質をかろうじてバランスを取って、堕ちて当然の場所でくたばらずに済んでいるのは、私を見守ってくれた人々の情でしかなかったのがよくわかった」と語るように、著者には手をさしのべたくなるようなきらきらとした才能のようなものを感じさせるものがあったのだろう。
 そして、「このホテルで暮らした八年余りが、私が一番本を読んだ時期であり、読書日記なるものを付けた」と言い、豊かな土壌となったものなのであろう。
 本書巻末には著者へのインタビューが動画で載せられているし、その中には妻夏目雅子へのレクイエムもあったりとサービスも怠らない。
 ところで、この日記の原稿を書くにあたって本書をあちこちと読み返したのだが、それで気がついたことは、こういうことでは紙の印刷本に比べたいそう不便なものだったし、しおりなどの機能もついてはいるのものの、必ずしも使い勝手のよいものとは思えなかった。
 結局、iPadでの電子書籍読書体験ということでは、本書はいかにも電子書籍としての実験的な要素も盛り込まれていて楽しいものだったが、このiPad2で本を読むという行為は、立ち読みする場合に限らずなかなか読みにくいものだったというのが正直な感想となった。

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(表紙画面)

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