秋葉原日記 (ライブラリ)

高木裕『調律師、至高の音をつくる』

 「知られざるピアノの世界」の副題の通り、ピアノの調律師の仕事、調律師から見たピアノの世界が生き生きと描かれていて、ピアノにまつわる興味あるエピソードもたくさん盛り込まれていたから面白く読んだ。
 ホロヴィッツが日本でコンサートを行った際、愛用のピアノをアメリカから運んできたときは日本の音楽ファンは度肝を抜かれたもので、ホロヴィッツともなるとそこまでするのかと感心もしたのだった。
 この日本人の間では今や伝説ともなった有名なエピソードを引き合いに著者はピアニスト、コンサートホール、ピアノ、調律師の関係を次のように書いている。
 ヴァイオリニストであれおよそ演奏家はコンサートを行うについて、それがリサイタルであるかを問わず自分の楽器を持参する。しかるにピアニストだけは演奏会場にある楽器を用いる。
 それは、コンサート用のピアノであるフルコンサートグランドピアノ(通称フルコンと呼ぶらしい)ともなると500キロもあるピアノをどうやって運ぶか、その経費は誰が負担するかなどという制約があるからだという。
 しかし、ピアノは温度と湿度によって非常に敏感な楽器であり、演奏会場の状況によってはピアノの使用環境は大きく左右されるのだとし、だからだろうが、コンサートにあたってピアノはあらかじめ調律師によって調律されたものが使われるし、また、ピアニストによっては専任の調律師を派遣して調律させるのだという。
 それでも、コンサートを前にして調律に費やせる時間にも2時間程度と制約があり、最高の状態でピアニストが演奏をしているかというと、必ずしもそういうことでもないらしく、このため、ピアニストが演奏会場に入って初めにやることは、いかに会場にあるピアノに慣れるかのだとも。
 そこで、自身が調律師である著者は、ピアニストに最高の状態で演奏してもらうべく、ピアノを数台在庫し、ピアニストの指名に応じて、調律済みのピアノを演奏会場に搬入する事業を開始したのだという。そして、それが今やスタインウエイ17台を保有しピアニストの要望に応じられる態勢が整えられるようになっているのだとも。
 つまり、日本で演奏するピアニストはホロヴィッツ並みの環境が整えられるようになったいうことだろう。
 一方、調律師の仕事について、日本で一般に調律師と呼ぶ人は3万人いるといい、このうち、一般の家庭や学校などのピアノの調律を行う調律師と、コンサートホールやレコーディングスタジオなどでプロが弾くピアノを調律するコンサートチューナーと呼ばれる人たちと、仕事の世界は厳然と違うと指摘している。調律のレベルが違うようで、コンサートチューナーと呼ばれる人で名の知れた人は日本で20人程度らしい。
 わが家にも、もちろんフルコンではないが、ささやかなりにもグランドピアノがあって、毎年1回は調律師さんに調律をしてもらっている。
 1回の調律に要している時間は1時間半から2時間程度だから、コンサートチューナー並みの時間だけはかけてもらっていることになるが、それはともかく、定期的に調律を行うことによってピアノはいい状態を保てるし、時にはフェルトやピアノ線も交換するなどメインテナンスも施しているから長持ちもしている。
 このピアノを弾いている家内によると、調律後のピアノはやはり状態がいいそうで、また、来てもらっている調律師さんも25年来の人だから、ピアノの状態も熟知しているのだという。
 ところで、本書では、ピアノはフルコンとしてスタインウエイを取り上げるばかりだが、実はスタインウエイが現在の地位を築くに至った背景には、カーネギーホールという大ホールに負けないピアノを開発したからなのだというエピソードを紹介していて、しかも、スタインウエイは自動車にたとえればF1レース用なのだということである。それまでのピアノはサロンなど小さい空間で弾かれることを前提にしていたから大きな音は必要なかったのだとも。
 そう言えば、自分がニューヨークで定宿にしているホテルはカーネギーホールのすぐ並びにあって、その斜め向かいがスタインウエイの本店だった。
 この距離はカーネギーホールとスタインウエイの関係をうかがわせるが、いつだったか、スタインウエイの店を通りかかった折に入ろうとしたら「冷やかしで入れるような店じゃあないよ」と家内からたしなめられたのだったが、それもそのはず、スタインウエイは1千万円クラスがざらで、なるほど、自分にはF1自動車は必要ないのだと苦笑いもしたのだった。
 また、本書には、スタインウエイ6台を扇形に並べ、山下洋輔ら6人のジャズピアニストが合奏する「ジャズ・ピアノ6連弾」のエピソードが紹介されていて、調律師として生涯最も過酷な調律だったと語られている。
 自分はクラシックだが、3人のピアニストの3台のピアノによる演奏(一般的に3台ピアノあるいはピアノ3重奏などと呼ぶようだ)を聴いたことがあって、それは一流のピアニストによる演奏でもあったから、まるで3台のピアノが1台のピアノの演奏のように聴こえ、その迫力と流麗な流れに驚嘆した経験があった。
 それが、6台ともなるとどういうものか、是非経験してみたいものだと念願したのだった。
 なお、些細なことだが、ピアノで連弾とは、1台のピアノを2人で引くことを意味するのだと思われ、複数台のピアノを複数人で引くことを連弾とは言わないはずだから、著者のピアノ6連弾の表現は誤用であろう。
(朝日新聞出版)

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