秋葉原日記 (ライブラリ)

井上ひさし『一週間』

 読み終わってうーんとうなってしまった。いや、読みながらうなり続けていた。いやいや、1ページくくるごとにうなっていた。
 何故かくもうなっていたか。それは、面白かったということが一つ。知らなかったことが書かれていたというのが一つ。大事なことが書かれているということが一つだったからだ。
 昨年亡くなった著者最後の長編小説である。いつものことだが本書も大きな構想のもと一字一句に渾身を込めて書きつづったという印象が読後感として強い。
 シベリアの捕虜収容所が舞台。主人公は小松修吉。東京で党生活者として地下活動に従事していたものの転向を余儀なくされ追われるように満州に渡り、満州映画協会の社員として勤務していたところ敗戦でそのまま抑留された。
 その小松が、コムソモリスクの収容所からハバロフスクに移送される。約60万人ともいわれる日本人捕虜向け日本語新聞「日本新聞」で出版の編集を手伝えというのだ。
 具体的には、ミチュリンスクの捕虜収容所から脱走した入江一郎という軍医中尉の脱走の顛末をまとめろというもので、苦難の脱走の末失敗した物語は、捕虜たちにとって脱走の意欲を削ぐものとなり脱走防止に役立つはずだというのがねらい。
 それで、入江に脱走行を取材したところ、その脱走談は面白すぎるくらいの痛快なものだったのだが、それはともかく、その際、入江から「レーニンの手紙」なるものの存在が明らかにされたのだった。
 その手紙は、若き日のレーニンが少数民族を念頭に置いた政治闘争を行うと決意をした文面となっており、その後のレーニンの足跡に鑑みると、レーニンは自らを裏切ったという衝撃の内容となっているのだった。
 そして、この手紙を入江から託されることとなった小松は、単身この手紙を切り札としてソ連政府と極東赤軍を相手に捕虜の帰還に敢然立ち向かったのだった。
ストーリーを読み進む面白さが断然ある。レーニンの手紙という興味津々たるエピソードにまず惹きつけられるし、著者持ち前のユーモアがちりばめられており、シベリア抑留などという物語特有の悲惨さ暗さが隠されているから単行本500ページを超す長編だが一気に読み終える手応えがある。
 しかし、巧みなエピソードの配置やさりげなくちりばめられたユーモアの陰に鋭い事実が突きつけられている。
 捕虜収容所の実態については数多くの報告があって、その理不尽さはわれわれの等しく知るところだが、それは表面的なごくわずかな認識でしかなかったということにまず気づかされる。
ソ連が国際法を無視し過酷な環境下で捕虜を使役したこと、このこと自体はよく指摘されていることだが、それに対して捕虜となった旧関東軍にソ連に抗議する姿勢がまったくみられなかったということ。
 しかも、それが旧関東軍将校自身に戦時捕虜の扱いに関する法的な知識にまったく欠けていたことによること。また、すでに敗戦しているにもかかわらず旧関東軍は収容所生活に旧軍組織の身分をそのまま持ち込んだということ。
 これによって、ソ連にとっては捕虜の使役や管理が容易となったばかりか、兵卒にとっては将校連の横暴によって、それでなくとも過酷な収容所生活がいっそう悲惨なものとなったのだった。
 井上の作品は、小説であれ戯曲であれ書評であれ好んで読んできた。本好きが本好きのために丁寧に一つずつじっくりと作品を編んでいるという風情があって面白かった。
 このうち、『本の運命』と『ボローニャ紀行』は書架のいつでも手の届くところに置いてあって時折読み返しているのだが、それにしても井上の新しい作品がもう出てこないという現実にはむなしさが募る。
(新潮社刊)

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