2016/05/24

森村泰昌展

 大阪の国立国際美術館で開催されている。 自画像の美術史-「私」と「わたし」が出会うとき、というタイトルがついている。
 森村の自画像は独特で、有名な絵画や歴史上の登場人物に自ら扮装し、そのセルフ・ポートレイト写真が作品。
 森村の展覧会を見るのは、10年ほど前にもなるか、横浜以来だが、今回はさらに作品のボリュームが一挙に増えていて125点にも上りいっそう見応えがあった。
 最初に出迎えてくれたのは「レオナルドの顔が語ること」(2016)。ダ・ヴィンチの肖像に扮したわけだが、その扮装の緻密さにまずは感嘆するとともに圧倒する権威が感じられた。
 自画像の美術史というシリーズだが、次に瞠目したのは「デューラーの手は、もう一つの顔である」(2016)。デューラーの自画像にまるでそっくりである。本展にはレンブラントやゴッホなどと多数の自画像が下敷きにされているのだが、そっくりということではこれが最たるものではなかったか。
 とくに、森村は手に着目したようで、直ぐ傍にウレタン樹脂などで製作した「彫刻/デューラーの手」も展示されていて、とてもなまめかしかった。扮装ではこの手を使用したものであろう。
 面白かったのは「「フェルメールの部屋を訪れる」(2016)で、フェルメールの「絵画芸術」と「青衣の女」であろうか、2枚の絵が1枚の中で表現されていた。森村はフェルメールに着目しているようで、様々な表現がある。
 興味深かったのは松本竣介に関わる作品が多数出品されていたこと。青春の自画像というシリーズで、「松本竣介/童顔」(2011)や「松本竣介/わたしはどこに立っている1」(2016)などとあって、森村の俊介に対する思い入れが伝わってきた。
 展示の終わり近く、「20世紀は自画像だった」というフレーズがあって、自画像好きの私にとっても意味深長に感じられた。
 つまり、森村のセルフ・ポートレイトは、その扮装の元となる絵があるときには、似ているなとか楽しいのだが、森村は何を訴えたかったのだと考えたときには、とても難解になるのだった。
 圧巻だったのは、展示の最後にあった「自画像のシンポシオン」(2016)という作品。レオナルドの「最後の晩餐」を題材にしたもので、ダ・ヴィンチやレンブラント、デューラー、ゴッホらの肖像画が並んでいる。このうち、横を向いているのはフェルメールの作品の登場人物で、そう言えば、フェルメールに自画像がなかったのだった。
 森村自身は、「ひとりの人間のなかには、じつに多くの別人のキャラクターがひそんでいる。それに形を与えて目に見えるようにしたのが、私の作品です」と述べている。
 なお、この展覧会でうれしかったことは、写真の撮影が自由だったこと。これは日本の美術館の企画展では希有な例で、森村泰昌並びに国立国際美術館に拍手を送りたい。
 


写真1 国立国際美術館で開催中の森村泰昌展の模様。


写真2 青春の自画像「松本竣介/私はどこに立っている1」


写真3 「自画像のシンポシオン」

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