2015/12/02

エラリー・クイーン『Yの悲劇』

 これも『深夜の散歩』に啓発されて久しぶりに読み返してみたもの。歴史上も本格ミステリーの傑作との評価のある作品であまりにも有名。
 物語は、ニューヨークを舞台に富豪ハッター家で起きた殺人事件で、ヨーク・ハッターの妻エミリーが殺害された。凶器は書斎に保管されていた古いバイオリンと思われた。なお、ヨークはこれより前、ニューヨーク湾で水死体で発見されている。
 エミリーは、一家の独裁者のごとき存在で、家族から蛇蝎のごとく嫌われていた。唯一可愛がっていたのは前夫との娘バーバラで、彼女はハッター家の長女なのだが、耳が聞こえず、目が見えず話ができないという三重苦という中年女。エミリーはバーバラと同じ部屋でベッドを並べて生活しているのだが、殺人事件はこの部屋で寝ているところを襲われたものらしい。
 この事件の解決に、警視サム、地方検事のブルーノの要請で登場したのが主人公ドルリイ・レーン。元俳優の名探偵である。レーンもまた口はきけるものの耳は聞こえず相手の口の動きを読んで理解し会話する。
 事件は外部からの侵入者によるものとは思われず、当日屋敷にいたものの存在は明らかになっている。また、事件を解く材料は判明したそのつど提供されている。
 だから、読者はレーンと一緒になって謎解きを進めることとなる。これが本作のまずミステリーとしての面白さである。人物造型もしっかりしているし、動機の有無と人物像が次第に明らかにされていく。
 本作は一再ならず読んだことがあるはずなのだが、内容が子細には思い出せない。途中、ところどころで思い出すエピソードはあるのだが、結末に思い至らない。これは私にしては珍しいこと。結局、最後まで読み終えていなかったと思われる。
 今回はちゃんと最後まで読み切った。自分も探偵になったつもりで読み進んでみた。材料は転がっている。それをどのように取り上げるのか。間違った方向に進まないように注意しなければならない。動機のある人物が多すぎるのが難しいところ。また、凶器がなぜバイオリンだったのかということ。そんなもので人が殺せるものなのかどうか。軽い弾みだったのか。
 ちょうど半分くらいまで読み進んだところで犯人がわかったような気がした。ただ、動機がわからないし、殺害方法もわからない。しかも犯人とするにはいちばん遠い人物で、これはまったくの直感。理路整然とした謎解きにはなっていないからいい加減なものだが、結果的には的中していた。
 ところで、本作を読むにあたっては古い本を書棚から引っ張り出してきたのだが、それが同じ『Yの悲劇』が2冊もあった。
 初めに読み始めたのは田村隆訳の角川文庫版。昭和36年(1961年)の初版で、手元にあったのは昭和50年(1975年)の23刷。田村は著名な文学者であり翻訳家である。
 これが、どう読み進んでも滑らかさに欠ける。古い訳だが、それにしてもいちいち訳が気になる。マサチューセッツ工科大学をマサッチュセッツ工芸学校などと訳されたのでは興趣が削がれる。家政婦のアーバックルをアーバックル夫人と訳したのも気になる。エミリーをエミリー夫人と訳しているのに、家政婦を同じように称じる必要があるのかどうか。
 それで、ついに角川文庫版で読み進むことはあきらめ、しかし最後までは読み切りたいし、書棚にあったもう1冊の『Yの悲劇』を取り出した。これは新潮文庫版で、大久保康雄訳。昭和33年(1958年)の発行で、私が読んだのは昭和63年(1988年)の55刷。
 角川文庫版で読んできたところから引き継いで読み始めた。ところがこれも読み進むに滑らかさに欠ける。家政婦が相変わらずアーバックル夫人となっているし、ハッター家の館の見取り図も挿入されていない。本作では館の構造が重要な鍵を握っているのにこれはいかがなものか。
 それでこれもこれ以上継続して読み進む気力が萎えてしまった。ここで、私がなぜ、ミステリーの古典ともいわれている『Yの悲劇』をこれまで読んでいなかったのか、その理由がはっきりしたと思った。つまり、ぎくしゃくしてとても読み進む気にならなかったのだからだろうと今にして思う。
 しかし、読み切りたい、そう思う面白さはあるのである。それで、ほかに『Yの悲劇』を出版しているところを探したところ、ハヤカワ文庫版のあることがわかった。すぐに八重洲ブックセンターや丸善、さらには主だった古書店でも探してみたのだが見つからない。そうこうして近所の図書館が所蔵していることがわかり、それも開架にはなくて、書庫から引っ張り出してきてもらって借り出した。
 それが宇野利泰訳で、1988年初版、1993年4刷とある。ハッター家の館の図面もちゃんと挿入されているし、家政婦についてもミセス・アーバックルと訳してある。これはいい。それで勢い込んで読み進めたのだった。
 やれやれ、一つの物語を3冊の本で読み継ぐなどということ、こんなことはもちろん初めての体験で、それだけに随分と集中して読んだ。
 それでわかったこと。もちろん面白い。本格ミステリーの醍醐味もある。しかし、傑作かと問われれば必ずしも首肯できない。これまで、前2冊でいずれも途中で放り出していたのは、訳のぎくしゃくに気分を害していたことに加え、結局は読み切るだけの決定的な面白さに欠けていたからだろうとも思われた。


(角川文庫、新潮文庫、ハヤカワ文庫=写真左から)

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