2015/03/09

映画『ナショナル・ギャラリー』

 ナショナル・ギャラリーは、ロンドンの中心、トラファルガー広場に面してある美術館。
 私の大好きな美術館の一つで、これまでに4度見学したことがあり、ちょうど1年前にも訪れていたばかり。
 パリのルーブルやニューヨークのメトロポリタンほどの巨大さはないが、それだけに見て回るのにちょうどいいサイズで、しかも、コレクションはルネサンスから現代に至る絵画を中心に厳選された珠玉のものばかり。収蔵2300点とか。
 実は、この映画を見に行くに際し、あらかじめ次のようなことを考えていた。つまり、世界中の著名な美術館が連日のようにテレビ番組で紹介されている今日の状況の中で、映画はどのような取り上げ方をしているのかということ。つまり、映画はテレビとどこがどう違うのだろうか、美しい絵画を大きな画面で見せるのだろうかというようなことだった。
 この予定は根底から覆された。だから、テレビ番組の延長でこの映画を見に行ったらまるで当てははずれる。そして何よりも難解である。
 もちろん、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノ、カラヴァッジョ、レンブラント、フェルメール、ターナー、ゴッホ、モネ、セザンヌなどの名画が次々と紹介されてもいる。
 そして、これら絵画の学芸員らによる作品解説がある。これがこの映画の見所の一つでもある。ただ、この解説は秀逸だがとりわけ難解でもある。よほどの教養がないと理解が及ばないのではないか。とくに宗教や西洋文明に疎い日本人にとっては。
 フェルメールの『ヴァージナルの前に立つ女』については、「写実と現実のバランスが肝心だ」と語っていた。生活や表情の一瞬を切り取ったように精密に描くフェルメールの写実。しかし、描かれたのはフェルメールが見た現実。写実と現実とのある種位相差。このことこそがフェルメールの本質らしいのである。
 映画は、この美術館の全体像に迫っていてその裏側にまで回っている。登場人物も、館長や学芸員、美術史家、修復士らのほか宣伝担当や運営管理担当から清掃係にまで及ぶ。
 作品解釈を巡っての議論から、どの作品をどこに展示するか、どの作品の隣にするか、照明のあて方はどうか、額縁はどうするか、そういうことが一つ一つ長い時間をかけて真剣にディスカッションされる。そういう場面が延々と続く。
 とくに修復については多く取り上げられている。この美術館の修復技術は世界最高との評価が高いが、ここでは「修復は完全な復元とは違う」などと語られている。
 もちろん絵画の持つ意味や、絵画を巡る教育のあり方などと議論は広範に及ぶ。
 「絵画本来の目的は多義的だ」「画家は伝えたいことを描いている」などとあり、(絵画の見方には)「正解が無数にある」ともあった。
 まるで、絵画鑑賞テキストのようであり、美術館運営マニュアルのようでもあるが、私にとっては何よりも面白かったのは絵画を鑑賞している人たちの表情だった。したり顔の人、首をかしげる人、呆然とする人、等々。
 上映時間約3時間。見終わってこれほど疲れたことは映画ではまれなことだった。


写真1 トラファルガー広場に面して建つナショナルギャラリー(2014年1月17日筆者撮影)


写真2 映画にも登場していたフェルメール「ヴァージナルの前に立つ女」(同)

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