2013/08/27

アーナルデュル・インドリダソン『湿地』

 アイスランドのミステリー小説である。これは大変珍しいもの。私自身もアイスランドのミステリーを読むのは初めてのことだった。
 事件は簡単である。10月の夕暮れ時のレイキャヴィク。雨交じりの風が吹いている。70歳前後の一人暮らしの老人が自宅アパートで重いガラス製の灰皿で頭を殴られて殺されていた。被害者は犯人を招き入れたもののようだが、室内は物色された様子はなく、ドアは開け放たれていた。犯人が慌てて逃げ去ったものかどうかはわからない。
 ただ、ノートを破った紙に鉛筆で書かれたメッセージが死体の上に置かれていた。そこにはただ「わたし は あいつ」と意味不明な三つの単語のみが書かれていた。
 主人公は、レイキャヴィク警察犯罪捜査官エーレンデュル。50歳。別れた妻との間に2人の子どもがいる。赤みがかった茶色い髪をもじゃもじゃにしている。がっちりした体格の大男で、犯罪捜査課の中でも最も経験のある捜査官であり、彼の意見は大概の場合尊重される。
 当初の捜査会議では泥棒の行きがかりの犯行などという説もでたり、灰皿から指紋が採取されるなどして「アイスランド的単純な殺人」と決めつけるものもいたが、エーレンデュルは捜査の方向を絞らないでいた。
 その後の捜査で、被害者の部屋の机の引き出しの奥から1枚のモノクロ写真が見つかった。教会の墓石を写したもので、墓石にはウイドルという女の名前と生年・没年が読み取れた。それによるとわずか4歳で死んだ女の子いうことになる。
 読み出して初めのうちはとても読みにくかった。なぜかと考えてそれはわかった。登場人物に限らず地名にしても覚えにくいのである。人名か地名かも判然としない場合も少なくないのである。アイスランド語に馴染みがなかったからだが、読み進むうちそのことは慣れてきた。そして次第に本書を手放せなくなってきたのだった。
 そしてどうやらその魅力の大きなところは、舞台であるアイスランドとその首都であるレイキャヴィクにあったのである。
 アイスランドは北極圏に近く、人口32万人の小国。北海道と四国を足した程度の面積しかない火山島で、漁業と牧畜が主要な産業。単一民族で、日頃はファーストネームだけで呼び合い、姓は一般的には使わないそうである。首都のレイキャヴィクは人口20万人。長い冬と短い夏があり、早い秋が訪れると雨がしとしとと毎日降り続く。
 しかし、このアイスランドは金融立国(そのせいでリーマンショック後は一時沈没したが)でもあり、教育レベルと文化程度は高く、コンピュータが普及している。国民のデータベース化が図られ、遺伝子データベースなどというものまである。
 そしてこれらの背景が事件と密接に結びついており、その謎解きは想像もできない方向へと展開していく。いわば、アイスランドという大きな密室で起きた殺人事件と呼べるもので、「殺人事件など滅多に起きない」レイキャヴィクで驚愕の真相が明らかになっていき、事件は悲しい結末を迎える。
 物語は丁寧に紡がれている。冷たい雨が物語を暗くしているが、何ごともないがしろにしないエーレンデュルの捜査。その彼が大胆な発想と決断で事件を思いがけない方向に導く。
 魅力ある舞台、魅力ある主人公、魅力あるストーリー、この三つが揃った傑作である。
(東京創元社刊)


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