溶接の歴史

1900年〜1935年

1900年(明治33)から1935年(昭和10)まで
 第一次世界大戦が勃発し、工業界への多量生産と短納期の要求が厳しくなり、欧米では修理としての溶接から生産手段としての溶接へと変貌して行きます。欧州ではアーク溶接がガス溶接に替わりつつありましたが、ガス溶接の発明国であるフランスではガス溶接にこだわっていました。アーク溶接はベルギーで取り上げられ、被覆アーク溶接の基礎が確立されることとなります。その後世界恐慌で各国共に景気は沈滞気味で、労弊したドイツではヒットらーが台頭し、再軍備の宣言などで世界の雲行きは怪しくなって行きます。
 一方わが国では、関東大震災後の復旧工事でガス切断・溶接がめざましく普及をしますが、アーク溶接は国内の法規定に縛られ、補修溶接すら前例がないとして認められにくい状態でした。しかしその後欧米からの刺激で急速にアーク溶接が採用されるようになります。

1902 酸素製造の工業化
 酸素は、過酸化バリウムの分解(1885年)や、水の電気分解で得ていたが、クロード(G.CLAUD)とリンデ(C.LINDE)が、それぞれ別個に空気液化による酸素製造法を開発し、工業的に多量の酸素供給が可能となる。これにより、ガス切断と溶接の発展への基礎ができる。[仏、独]

1902 カーバイド製造
 これまでは、大都会の照明用として輸入カーバイドに頼っていたが、仙台宮城紡績電燈の藤山常一が、海外文献をたよりに50KWの電気炉を使い、はじめてカーバイドを製造し国産化への道を開く。*20[日]

1904 アーク溶接機の輸入
 三菱長崎造船所が、英国のパーソンズ・マリン・スチーム・タービン社から、タービンの製作権を得て、鋳造設備一式を輸入したが、その中に鋳造用具として、カーボン・アーク溶接機が入っていたらしい。*13[日]

1904 被覆アーク棒の会社設立
 チェルベルヒ(OSCAR KJELIBERG)が、被覆アーク溶接棒について研究し、造船グループの投資支持で、ゴタベルケンにエサブ社(ELECTROSA STETSNINGS AKTIEBOLAGET,ESAB)を設立する。*19[スエーデン]

1905 溶接・切断吹管
 欧州で酸素・アセチレン溶接・切断トーチが数多く市販され、一般化しはじめたのがこの頃からとされている。*13

1905 シーム溶接
 スタンダード溶接社が、はじめてシーム抵抗溶接機を使い、純ニッケルチューブを溶接する。この時の継ぎ目は、ほとんどわからないほどすばらしい溶接だったとされている。*19[米]

1905 パーカッション溶接
 チャブ(L.W.CHUBB)がウエスチング・ハウス電気製造社で電解コンデンサーの実験中に、瞬時に多量の電流を流し、衝撃で鍛接するパーカッション溶接法を発見する。*23[米]

1907 バット溶接機の輸入
 芝浦製作所が米国のジェネラル・エレクトリック社と技術提携した折に、輸入した生産設備の中に、わが国はじめての銅線接合用(3mmΦまで)のバット溶接機が入っていたらしい。*13[日]oΦまoΦまで)のバット溶接機が入っていたらしい。*13[日]

1907 炭素アーク溶接で補修
 この頃、陸軍の大阪工廠で、炭素アーク溶接を使い鋳鋼の補修をしたが、その溶接機は前年に輸入したものだったとの話がある。[日]*25

1907 被覆溶接棒の特許
 チェルベルヒ(0SCAR KJELLBERG)が、被覆アーク棒について特許を取る。その内容は、被覆目的が空気中の酸素窒素から保護し、溶接部に適当な物理化学的性質を与え、全姿勢で溶接するにあるとしており、これは当時の被覆塗布が溶接速度向上のためとする考えと異なっている。したがって、彼が今目の被覆アーク溶接棒の考案者とされている。しかし、この被獲棒は高価だったので初期には利用者は少なく、これを使っての溶接ボイラは1914年になって、はじめて製造されている。*13 *19[スエーデン]

1908 コンベアライン生産方式
 フォード(HENRY FORD)が、工程を細分化し、各工程が一人の単純作業で済ませるコンベアラインを、自動車生産ラインにはじめて適用する。これ以後モデルTに代表される、多量生産による安価な車を提供することになる。*21[米]

1909 溶射の特許
 チュリッヒ大学にいたショープ(U.SCHOOP)が金属溶射の特許をとる。日本への技術導入は1921年からである。*13[スイス]

1909 ガス機器の輸入
 スイスのファブル・ブランド商会が、神戸市でガス切断・溶接用のガスとトーチの販売をはじめる。*20[日]

1909 ガス機器の展示
 フランス式のものが東京芝浦海岸で展示実演会が行われる。[日]

1909 液酸素装置の輸入
 範多商会は、大阪鉄工所桜島工場にフランスから輸入した酸素製造装置クロード式20M3/H機を一台設置する。このときジョルジュ・ブイヨンが技術指導で来日する。彼は初代溶接学校長など長年日本の溶接と酸素製造工業に貢献し、1948年に帰国する。*20[日]

1909 ガス機器の輸入
 ドイツのドレーガー・ベルケ社より東京の山武商会が、はじめてガス切断・溶接用トーチに1,500リットル入り酸素ボンベ数本をつけて輸入し、横須賀海軍工廠長浦水雷部に納入する。[日]

1909 国産バット溶接機
 芝浦製作所が、米国トムソン社のをモデルに、国産ではじめてのバット溶接機 2台を製作する。*20[日]

1910 戦艦の解体
 ハパナ湾にあった戦艦メインの解体切断処理にガス切断が大々的に利用される。*19[米]

1910 米国で金属の接合
 この頃になると、ガス溶接やアーク溶接が多く使われるようなるが、1930年代になっても一部の鉄道や鍛治屋では、未だ鍛接による接合を見かけることがあったとしている。*19[米]

1910 溶解アセチレンの輸入
 スエーデンのアガガス社かた、大日本アガ瓦斯製造所が燈台装置を輸入し逓信省広島航路標識管理局に納入されているが、その中に溶解アセチレン・ボンベが入っている。これがわが国でのはじめての溶解アセチレンである。そして、二年後に広島に溶解アセチレン工場が設立され、自給できることになる。*20[日]

1910 溶接装置の会社設立
 フランスのエアリキッド社が、切断・溶接の普及を目的とし、日本オキシジェーヌ及アセチレーヌ会社(本店パリ市、資本金40万フラン)を神戸に設立し、社長に日本海軍の戦艦(松島、橋立、厳島)設計者のベルダン(EBERTIN)を任命する。そしてフランス領事館内で、日本ではじめての溶接技術講習会を三ケ月を一期として開催する。このとき初参加した鐵道院新橋工場の5名が中心となり、後刻工場内に溶接部を設ける。*20[日]

1910 液酸素装置の輸入
 日本酸素合資会社が設立され、ドイツのヒルデンブラント式10M3/H酸素製造装置一基を輸入し、東京大崎工場で酸索の販売をはじめる。[日]

1911 自動ガス溶接
 はじめての2:1のトレーサ付きの拡大自動ガス切断機「オキシグラフ」が、デヴィス・パワノンビル社から市場に出る。*19[米]

1911 造船での切断・溶接
 川崎造船所、三菱長崎造船所、梅軍工廠などで、神戸の日本オキシジェーヌ及アセチレーヌ社で学んだガス切断・溶接の、現場適用がはじまる。*20[日]

1911 鉄道で切断・溶接
 国鉄小倉工場で、アセチレンガス溶接機を購入し、溶接・切断を試験的に採用する。*20[日]

1911 ガス溶接実演会
 日本酸素が、東京蔵前高等工業学校の手島校長の斡旋で、同校で逓信大臣後藤新平など政府高官を招き溶接切断の実演をする。*20[日]

1912 溶接機の製造
 ゼネラル・エレクトリック社が溶接機製造分野に参入する。*19[米]

1912 ガス器具の利用
 当時の鉄道客車製造5杜のアセチレン・トーチの保有数は合計300台以上で、各社共に工場内でのガスは、配管により供給されていたとある。*19[米]

1913 被覆棒の製造
 ピアノ製造専門のストロメージャ社(STROHMENGER CO.)が、ピアノ線にアスベスト紐を巻き付け、その上に炭酸カルシュムを塗布した被覆棒を開発する。後刻これに改良を加えられたものは、米英両国で多く使われ、クオーシ・アーク棒(QUASI ARC)として有名になる。*19[英]

1913 溶接講演会
 海員会館で行われた関西造船協会主催の講演会で、ローヤ(R.ROYYER)が「液体空気に就いて」と題して、溶接切断の講演を行う。*30[日]

1914 第一次世界大戦勃発
 1914年(大正3)7月から1918年(大正7)11月のドイツ降伏まで続く。1917年頃の論文に、今時大戦がアーク溶接進展の原動力になっているとする記述がある。*19[米]

1914 被覆アーク溶接の導入
 三菱長崎造船所が、スエーデンのチェルベルヒ社より被覆アーク溶接法について特許権を購入、その技術習得に現場から3名が大戦下のヨーロッパに出かける。そして、翌年から主として鋳物の補修にアーク溶接の適用をはじめる。その時の被覆成分は、炭酸石灰20、重炭酸ソーダ13、黄血塩5、木炭粉末10、硼酸24、二酸化マンガン20、酸化珪素8の比率だったとされている。*20[日]

1914 アルミのガス溶接
 帝国酸素桜島工場で、日本アルミがアルミニウムのガス溶接をはじめて学び、以後アルミ用フラックスなどの研究が進む。*20[日]

1915 博覧会での溶接展示
 パナマ太平洋博覧会に、溶接関係5社が出品し、工業界から金属接合の便利な方法として注目され、展示後に溶接適用範囲が急速に広がることになる。*19[米]

1915 直流溶接機の輸入
 三菱長崎造船所が、スエーデンのチェルベルヒ社より 40KWのモータ・ジェネレータ式直流定電圧型で、一台で数人が同時に溶接できる多人数型溶接機をはじめて輸入する。この型のものは、わが国では1935年頃まで広く使われる。*20[日]

1915 ガス切断。溶接の講演
 ローヤ(R.ROYER)が造船協会で「液體酸素ノ応用ト其實験」と題して、溶接講演をする。(造船協会会報1915-3)[日]

1916 X線検査の研究
 ユニオンカーバイド研究所のジョン博士(A.S.JOHN)が、溶接部へのX線適用のための研究をはじめる。これが、溶接製圧力容器の検査に適用できる装置として試作されることになるのは1921年になってからである。*19[米]

1916 米国でのアーク棒
 この頃まではの米国のアーク溶接棒は、英国から輸入したクオーシ・アーク棒が主流で、それ以外は自家製の裸棒で、アークの安定性を高めるために水洗し表面を錆びさせたもの、薄く石灰を塗布したものなどが使われている。*19[米]

1916 溶解アセチレン
帝国酸素アセチレーヌが、神戸工場で溶解アセチレンの製造をはじめる。*20[日]

1916 水中ガス切断
 三菱神戸造船所で水中ガス切断が実施されたとあるが、一般に知られるようになるのは1927年頃からである。*20[日]

1916 アーク溶接法の紹介
 わが国の技術資料(造船協会雑纂1916-4)で、初めて海外でのアーク溶接法の構造物への適用状況が紹介される。そしてこの頃より、海軍工廠を中心にアーク溶接に注目すべしとの機運が出てくる。[日]

1917 婦人溶接作業者
 英国では戦時の溶接需要に応えるために、200人の婦人が溶接作業者としての訓練を受け就職したとある。また、この時期米国においては、1,000-1,500人の婦人溶接作業者が、航空機産業にたずさわっていたとある。*19[米]

1917 セルローズ棒の登場
 第一次大戦でのドイツの潜水艦攻撃で、英国製クオーシ・アーク棒の輸入が困難となった米国で、スミス社(O.A. SMITH CO.)のアンドラス(O. ANDRUS)とストラウス(D. STREAUS)が、心線に紙をスパイラル状に巻き付ける、今日のセルローズ系の原型となる被覆棒を作る。*19[米]

1917 ガス溶接・切断の展示
 東京で化学振興博覧会があり、ガス溶接・切断器が展示実演される。これらは、一般の人が見るはじめてのガス溶接・切断である。また、この時に来場された皇族の方に御前実演したとの話もある。*13[日]

1917 ガス機器メーカ
 溶接・切断機メーカとして田中製作所が設立される。続いて翌年には小池酸素器具製作所が、ガス器具の修理を主目的に登場する。1920年頃までは、これに日本酸素専属の浜井製作所が加わり、この三社が関東での国産ガス機器製造販売を含めた専業メーカとなる。*20[日]

1917 船級協会の溶接規定
 ロイド船級協会が、アーク溶接について、初めてテスト的な規則を定める。[英]

1917 アーク溶接機の輸入
 この頃より、主なる民間造船所で散発的にアーク溶接機を輸入し、雑工事などに使いはじめる[日]

1917 貨物船の補修
 ドイツは対米開戦時に、米国湾内にあった全てのドイツ貨物船109隻の米国側の捕獲転用を阻むためにエンジン部を破壊する。しかし、修復に2年以上はかかるだろうとされていた、これら捕獲船の修理に、米国はアーク溶接を適用して、わずか8ケ月で修理を終え、米国船として再就航させ、アーク溶接を有名にする。*19[米]

1918 米国溶接協会の設立
 アメリカ溶接協会(AWS)が設立され、初代会長に緊急船隊組合の溶接委員長であった、アダムス博士(CONFORT A. ADAMS)が就任する。*19[米]

1918 工廠での溶接研究
 この頃より、海軍工廠で溶接実験がはじまる。[日]

1918 全溶接船
 ノーホーク(NORFORK)海軍工廠で、米国として初めて全溶接による標的船を建造する。続いて翌年に、全溶接でパゲット・サウンド海軍工廠が50M長の曳船(PINOLA)を建造する。*23[米]

1918 被覆アーク溶接の導入
 大阪製鎖所が、英国クオーシ社(QUASI-ARC CO.)よりアーク溶接装置の製造販売権を購入する。そして、被覆棒の販売だけでなく、この被覆棒を持って企業に出向き、溶接工事の下請けも行なう。[日]

1918 アーク溶接の研究
 京都帝国大学電気工学教室で岡本赳助教授がアーク溶接の研究に着手する。わが国での溶接の組織的研究のはじめである。*20[日]

1918 ボンベ爆発事故
 兵庫駅構内での運搬ミスで、大阪砲兵工廠が製作した、国産はじめてのアセチレン(一説には酸素との話がある)ボンベが爆発し、多大の被害を出す。[日]

1919 全溶接船の建造
 フランスで工作作業船(SOUDURE AUTOGENE FRANCAISE 4)が、はじめて全溶接で建造される。*26[仏]

1919 交流溶接機の輸入
 米国エレクトリツク・アーク切断・溶接社から商社の伊藤忠が交流アーク溶接機をはじめて輸入し、京都大学の研究室に納入する。これをモデルに以後、国産化が進む。*13[日]

1919 民間での溶接研究
 大阪鉄工所桜島工場が交流アーク溶接機を購入し、溶接研究に着手する。*27[日]

1920 点溶接の発展
 米国で、1900年頃から点溶接についてのハーマッタ特許論争が起り、裁判所よりこの年に特許無効が宣せられる。以後点溶接の高額な特許使用料が不要となったので、自動車産業をはじめ造船などで急速に点溶接が採用され普及する。*19[米]

1920 建築の溶接
 英国のフォンダリー・ビル(FOUNDRY BUILDING)の増築工事で、建築関係ではじめて溶接が使われる。*20[英]

1920 艦艇の溶接
 佐世保海軍工廠で、100トン積み火薬運搬船を全溶接で建造する。わが国海軍でのはじめての溶接船である。[日]

1920 改造船への溶接適用
 改造船(トロールをオイルライターへ)の船体構造に、はじめてアーク溶接を適用する。これは公的規制の枠外工事と認定されために、アーク溶接が適用が可能だったとされている。[日]

1920 全溶接外航船の建造
 英国のキャメル・へアード造船所で、世界ではじめの全溶接での外洋船「フラッガ」(FULAGAR 110′×32′×8′)が進水する。本船へのアーク溶接の採用については、大戦でヨーロッパからのガスの輸入が難しくなった英国が、窮余の策で試みていたアーク溶接についての実績があったからだとの話がある。*26[英]

1920 全溶接船の建造
 米国メア・アイランド海軍工廠で、水上飛行機用起重機船を全溶接で建造する。*23[米] 1920 全溶接船の建造日本で初めて全溶接で、従業員送迎用フェリボート1,500人乗り"諏訪丸"(65′×35′×8′)が長崎造船所で英国の「フラッガ」の翌月に進水する。大きな船の割には法規の制約が少なかったので全溶接化ができたが、歪みが多く出て苦労したと記録されている。*26[日]

1920 造船溶接の論文
 造船協会会報(1920-4)で「造船二応用セル電気鎔接」斯波孝四郎と「電気鎔接法ノ応用二就テ」孕石元照の造船溶接についてのはじめての論文が出る。[日]

1920 機関車の溶接
 8620形機関車の内火室を、全ガス溶接構造で試作し良い成績を得たが、実車では未だ不安があるとして、溶接は半分程度の適用にとどまることになる。*20[日]

1920 溶接機の輸入
 国鉄小倉工場でジェネラル・エレクトリック社の直流溶接機を輸入し、カーボンアーク溶接で機関車部品の肉盛溶接や穴埋め溶接に適用する。また、汽車製造は米国エレクトリック・アーク切断・溶接社から交流アーク溶接機を輸入し、溶接化を試みる。*20[日]

1920 溶接講演会
 東京府立工芸学校で行われた機械学会主催の講演会で、リンデンが「酸素鎔接及ぴ切断に就いて」の講演を行う。*28[日]

1921 小型船の全溶接
三菱神戸造船所で、全溶接の起重機船(65′×35′×8′)と発動機船「満球丸」(45′×10′×5′)が進水する。*26[日]

1921 溶接しゃ光眼鏡
 造船協会会報(1921-10)で、溶接用しゃ光眼鏡についてのはじめての技術論文「電気鎔接用遮光板二就テ」木内政蔵が出る。[日]

1921 アーク溶接規定
 帝国海事協会の鋼船規則にはじめてアーク溶按の章が登場する。[日]

1922 認定溶接材料
 この年までにロイド船級協会が認定したアーク溶接棒の製造会社は、アロイ・ウエルディング・プロセス、ブロム・アンド・ボス、英国アーク・ウエルディング、チェルベルヒ、クオーシ・アーク、ウイルソン・プラスチック・アークの6社のみである。*29

1922 不況期での溶接
 ワシントン軍縮条約発効し、建艦休止が増え,造船進水量も当時最低の6万総トンまで急減し、この状況がしぱらく続くことになる。このため、多くの造船関係の溶接工が解雇され市中に散ったなどで、風呂やの煙突まで溶接化され、産業全般としては国内の溶接化は逆に高まったとも云われている。[日]

1922溶材商
 溶接材料を専門にしても、企業として成り立つようになり、日本鎔接工業(1922)、片山工業所(1925)などが登場する。*20[日]

1922国産交流溶接機
 1919年に輸入された米国製稼働コア型溶接機をモデルとして、浜野兵次がはじめて国産の交流アーク溶接機を製作する。*20[日]

1922 溶接機専業メーカ
 日本電気熔接機が創業し、続いて大阪電気(1925)、東洋電機熔接機、佐藤電気工業所(1927)などの溶接機専業メーカが登場する。*20[日]

1922 溶接関連輸入業者
 この頃の溶接関連関係の貿易商としては、米国リンカーン社の溶接機の常磐商会、ドイツのクルップ溶接棒の水橋商会、1925年には英国メトロポリタンビカース社の電気溶接機を取り扱った高田商店などがある。*20[日]

1922 足踏式点溶接機
 日本電気熔接機が、はじめて足踏式点溶接機を製作する。この時期では国内の点溶接は、溶接は早いが信頼性は薄いとの評価で、あまり利用されていない。*20[日]

1922 鉄道での溶接
 国鉄浜松工場で、ゼアス油抵抗式交流アーク溶接機を輸入し、主としてバルブ部品の肉盛溶接を行う。*20[日]

1922 溶接規定
 旧JES353で「電弧鎔接接手及記号」を制定する。[日]

1922 ガス取締令
 アセチレン発生器などでの爆発事故が増えはじめたので、法律31号で圧縮ガス及ぴ液化ガス取締令が出される。そして、翌年には取締法施行令が内務省令として公布される。[日]

1923 関東大震災
 大正12年、東京を中心に大災害となる。震災後の復旧工事に関係してガス溶接切断業界が活性化され、ガス工作法も一般化しはじめる。[日]

1923 表面硬化溶接
 表面硬化溶接についての、最初の特許は1896年に出されているが、実用化されるのはこの頃からで、へインズ(ELWOOD HAYNES)らによって、コパルト基合金を使いガス溶接で、機械部品の磨耗部分の肉盛りが行われる。*19[米]

1923 試験胴の破壊試験
 米国製缶業者数社が共同で圧力容器を溶接構造で試作し、米国溶接協会と標準局が破壊試験を行い、実用化に向けての基礎データを蓄積する。*23[米]

1923 点溶接機の進展
 フォード社が横浜に部品を輸入して、自動車組立工場稼働させる。翌々年にはゼネラルモータ社が同じような工場を大阪で操業する。この時に輸入された点溶接機の稼働実績を見て、点溶接の信頼性が見直され、実用化が広がることになる。*13[日]

1923 圧力鉄管の溶接
 安曇電気の中房発電所での鉄管接合工事で、はじめて圧力鉄管に対して溶接を使う。*20[日]

1923 圧力容器の溶接
 三菱神戸造船所が、日本電力の東発電所向け蒸気溜を全溶接で製作する。*20[日]

1923 鋳鉄製品の補修溶接
 三菱長崎造船所で、タービン・ケーシングの鋳庇を溶接で補修して、新品と同等であることの試験をし、以後海軍艦艇での溶接補修の道を開く。*23[日]

1923 溶接技能検定
 三菱長崎造船所で、自社独白の溶接技能検定をはじめる。当時は技能レベルを溶接継手の引張強度で判定しており、この年の平均値は31Kg/mであったが、二年後には40Kg/mになる。*20[日]

1924 鉄道での溶接棒
 国鉄浜松工場で、軟鋼心線を購入し、これに炭酸カルシュームを主成分としたフラックスを塗布した、浜松工場式被覆棒を試作し実用化する。しかし、1926年には輸入のウイルソン社製被覆棒が優秀であったので、以後それに切り替わる。*20[日]

1924 フラッシュ溶接機
 新家リム山中工場と、大阪天六の京阪電車の高架工事で大林組が、鉄筋の接合などに輸入したフラッシュ溶接機を使う。以後この輸入機による溶接法が普及しはじめる。*20[日]

1924 建築の溶接
 関東大震災の復旧工事として、丸の内郵船ビルで補修に溶接が使用され、続いて東京海上ビル、華族会館、住友ビル、有楽館の補強工事にも溶接が適用される。*20[日]

1924 電車の構造
 神戸の市電に、はじめて半鋼製車が二年後には全鋼製車が登場する。しかし、このときの鋼製車は未だ全て鋲構造である。*20[日]

1925 自動溶接機
 この頃、フラックスなしの裸ワイヤだけによる、アーク電圧制御方式の自動アーク溶接機を、ジェネラル・エレクトリック社が市販する。*19[米]

1925 溶接機の製造
 大阪電気が交流アーク溶接機、抵抗溶接機を製造販売する。翌年には、日立製作が200Aの直流定電圧型溶接機を市販する。*13[日]

1925 国産溶接棒
 国産被覆アーク溶接棒の、はじめてのメーカーとして、軟鋼用で角丸工業、鋳物用で新宮鋳工所が設立される。*20[日]

1925 圧力鉄管の溶接
 三菱神戸造船所が直流アーク溶接機を使い、鳥坂発電所の水圧鉄管を全溶接で施工する。*20[日]

1926 原子水素溶接
 ジェネラル・エレクトリック社のマッケイ(G.MACKEY)とウッド(R.W.WOOD)がタングステン電極と水素ガスを使う原子水素溶接を発明する。これにより薄板や特殊金属の溶接が可能となる。これの日本への技術導入は1930年からである。*13[米]

1926 被覆棒の押し出し塗装
 オー・エイ・スミス社のチャイル(J.J.CHYLE)により、被覆棒の押し出し塗装による方式が考案され、翌年には押し出し塗装のセルローズ被覆棒が多量生産される。*19[米]

1926 鉄骨の溶接
 全溶接での鉄骨構造が多く出はじめるようになる。*20[米]

1926 炭酸ガス溶接不適当
 ゼネラル・エレクトリック社のアレキサンダー(P.ALEXANDER)は、炭酸ガスを使って消耗電極で溶接すると、酸化程度がひどく、溶着金属はもろくなり、溶接法としては不適当だと発表する。この考えは1950年頃まで続き、このためこの期間は炭酸ガス溶接についての研究は行われていない。*19[米]

1926 レールの溶接
 この頃までは、レールの接続はボルトつなぎであったが、大阪・神戸の市電はアーク溶接を、東京の市電・地下鉄大阪地下鉄、阪神・阪急電車ではテルミット溶接が使われはじめる。しかし、溶接不良が多く、10%以上が折損したとある。*20[日]

1926 客車の溶接
 これまでの客車は、ほとんど木製であったが、この年から半鋼製客車が製作される。これには一部ガス溶接が採用されているが、信頼性が簿かったのか、溶接後に鋲接する二重接合された箇所がある。*20[日]

1926 電気鎔接協會発足
 大正15年に大阪の中央電気倶楽部で電気鎔接協會の設立総会が開かれる。初代の会長は孕石元照である。機関誌として「電気鎔接協會誌」の創刊号が出版される。この協会は1927年に溶接の範囲を広げるため電気を除き、鎔接協會とする。そして、1936年に文部省所管の社団法人として認可され、1943年に熔接學會と改名する。さらに1960年に今日の溶接学会となる。[日]

1927 ビルの溶接
 米国で、はじめて5階建ての全溶接構造のシラトン・ビルジングができる。この頃からビルでの溶接化が進む。*26[米]

1927 ガス切断・溶接トーチ
 この頃から森式、釜島式などの国産のガス切断・溶接トーチが市販されるようになる。*20[日]

1927 可搬式点溶接
 日本ゼネラル・モータ鶴町工場で、輸入したはじめての可搬式点溶接機が稼働する。この機種が国産化されるのは、1930年からである。*20[日]

1927 商船の溶接
 三井造船所が救助船「那須丸」(693トン)を、80%と云う当時では相当高い溶接化率で建造する。*26[日]]

1927 溶材商組合発足
 東京カーバイド組合が設立される。これは溶接器材関係での、はじめての組合組織である。*20[日]

1928 高周波溶接
 高周波誘導加熱溶接方法が、オスボーンにより発明される。これが日本に技術導入されるのは1960年からである。*13[米]

1928 溶接機の稼働
 この時期、自動車のフォード社では、フラッシュ溶接機320台、点溶接機540台、シーム溶接機25台が稼働していたと、溶接協会の論文で紹介されている。*19[米]

1928 建築溶接の規定
 米国溶接協会が、溶接についての建築条令案を発表する。これは1930年、および1934年に改訂される。*20[米]

1928 溶材輸入業者
 当時輸入されていたのアーコス棒(STABILEND,CHROMEND棒)は、作業性・継手性能共に良好で、陸海軍の特命品としてアーク溶接に不可欠のものとされていたが、非常に高価(一説では国産品の20倍以上の話がある)なため、特殊工事にしか使われていない。この年に愛知産業がベルギーアーコス社の総代理権を獲得する。*20[米]

1928 水圧式バット溶接機
 それまでのバット溶接機が人力加圧であったのを、はじめて水圧式に変え35mmφまでのパイプ溶接を可能にした国産機を、大阪電気が製作する。*20[日]oφまoφまでのパイプ溶接を可能にした国産機を、大阪電気が製作する。*20[日]

1928 造船でのアーク溶接
 この頃より造船での二次構造や艤装品取り付けなどに、アーク溶接の適用がはじまる。[日]

1928 橋染の試験
 鉄道大臣宮房研究所で、スパン3Mのプレートガーダ試験材を、鋲構造とと溶接構造で製作し破壊試験を行ない、構造として両者が同等であるとの結果を得る。*20[日]

1928 ケーブルカーの溶接
 比叡山電鉄のケーブルカーで、外板と柱の接合に栓溶接を使用する。*20[日]

1928 溶接学校
 神戸液体空気社が、これまでの講習会形式ではなく、ガス専門の正式な技術者養成機関として神戸市に「鎔接切断実習学校」を創立する。1931年には電弧溶接科を併設している。1941年の閉校までに1,000名を越す卒業生を出す。創設時に出版された「実用酸素アセチレーヌ鎔接及切断」(エングランジョン、ロザンベルグ著)は、わが国でのはじめての溶接技術書と思われる。*20[日]

1929 溶接戦艦の竣工
 溶接を多用して船体の軽量化に成功し、重装備と高速化で世界を驚かした、ポケット戦艦「ドイチェランド」が竣工する。[独]

1929 厚塗り被覆棒
 商業ベースで、厚塗り被覆棒が市場に出る。これにより、軟鋼の継手部が母材より優れ、高電流で溶け込み深く、溶接速度も速くなったので、溶接の信頼性が高まる。*19[米]

1929 艦艇へのアーク溶接
 舞鶴海軍工廠が、駆逐艦「タ霧」で、はじめて船殻構造の内構材ヘアーク溶接を適用し、艦艇の溶接化への道を聞く。[日]

1929 試験溶接橋
 横河橋梁製作所が、径間33Mの全溶接試験用公道橋を製作する。*26[日]

1929 客車の溶接
 国鉄小倉工場では、客車側板のガス溶接箇所をアーク溶接に切り替える。この年に、この工場では半自動溶接機を輸入したが、実用には至らなかった。*20[日]

1929 溶接講座
 大阪帝国大学工学部冶金学科において教授井口庄之助、助教授岡田実で溶接工学の講義がはじまる。*20[日]

1930 不活性ガス溶接の特許
 ゼネラル・エレクトリック社の、ホバート(HEBRRY M. HOBART)とデーバス(DEVERS)が、不活性ガス中でのアーク溶接の特許を取得する。しかし、アルゴンやへリウムが高価で実用化は無理として、会社は機器の開発を中断する。これが実用化されるのは、戦時色の強くなった1940年頃からである。なお、この方法が日本に技術導入されるのは1951年である。*13[米]

1930 全溶接の貨車
 この頃、ミルウオーキー鉄道で、全溶接の貨車が製造される。*19[米]

1930 舶用ボイラの溶接
 米国巡洋艦(NEW ORLEANS級)の建造で、船体構造へ溶接を多く採用したことと舶用ボイラ胴を、B&W社が全溶接で製作したことで注日される。なお、当時は裸溶接棒で施工されるのが普通であったが、この船体の重要箇所では、被覆棒が使われている。*23[米]

1930 缶胴の溶接
 ASMEがICE社に缶胴製作での溶接の採用をはじめて許可している。この社は、B&W社が自動溶接を多用したのに対して、信頼性を高めるために、全て手溶接で施工したとしている。*23[米]

1930 建築の溶接規定
 保安大臣名で、高層建築に対する溶接実施規定ができる。これは、翌年に改訂されてDIN4100規格となる。*20[独]

1930 溶接技術者教育
 トロントハイム大学で、溶接技術者養成のための講義が行われる。*24[ノルウェー]

1930 原子水素溶接器の輸入
 原子水素溶接装置を輸入し、国鉄小倉工場に納入され工具の溶接に利用される。二年後には、芝浦製作所から国産機が販売されるようになる。[日]

1930 海軍溶接規定
 第一次「海軍鎔接規格」が制定される。これによると、技能検定の合格ラインは継手引張試験で31kg/mとなっている。この数字は1932年には33kg/mに、翌1933年には40kgmと改訂されている。*20[日]>
1930 圧力鉄管溶接規格
 東京市水道局で「電気鎔接鋼鉄管規格」が制定される。*20[日]

1930 敷設艦「八重山」の溶接
 船体の内部構造部材から船首尾構造まで、ブロック構造を採用しアーク溶接の適用範囲を大幅に拡大した、敷設艦「八重山」が呉海軍工廠で進水する。[日]

1930 可搬式橋梁
 陸軍技術研究所は、野戦用渡河器材として可搬組立式軽トラス橋試験桁を、全溶接で試作する。そして強度試験の結果、スパン3M、幅4Mのものが兵器として採用される。*20[日]

1930 機関缶の溶接
 C50形機関車の内火室を、全溶接構造で製作する。そして1932年では、C11、C12形機関車の重要耐圧容器の缶胴継手まで、溶接が適用されるようになる。*20[日]

1930 客車での溶接構造
 骨組と外板との接合部が二列鋲となっていたのを一列鋲とし、もう一列分を溶接に切り替えることが、国鉄小倉工場でのアーク溶接審査会で決定される。*20[日]

1930 鉄道での技能検定
 鉄道省立案の「電弧鎔接構造物設計及ぴ製作示方書案」にもとずき、鋼鉄道電弧溶接工検定試験を実施する。*20[日]

1930 溶材商組合
 「大日本酸素カーバイド鎔接器具材料商組合」が東京で設立される。その翌年には、「大阪鎔接器具材料商組合」が誕生する。*33[日]

1930 溶接規格
 「水道鋼管鎔接規格」が公布される。しかし、実際適用は1932年からである。*23[日]

1931 船級協会の溶接規定
 BV船級協会が内海船についての溶接規定を公示する。[ノルウェー]

1931 船級協会の溶接規定
 GL船級協会が「電気鎔接に関する規則」を公示する。[独]

1931 溶接汽缶の規定
 ASME(AMERICAN SOCIETY OF MECHANICAL ENGINEER)が汽缶の溶接についての規格を制定する。そして、1934年では50キロ級鋼の使用を認める改定を行っている。*23[米]

1931 溶接学会の設立
 スエーデンで溶接学会が設立される。翌年にはノルウェーで、1934年にはオランダでも溶接学会が誕生する。

1931 溶接技術者教育
 国立の溶接研究所で、一年間の溶接技術者養成コースができる。*24[仏]

1931 国産溶接棒の認証
 播磨造船所で開発された、国産被覆アーク溶接棒(TAMRARC)が、わが国ではじめてロイド船級協会の承認を取得する。[日]

1931 商船の溶接
 浦賀船渠で貨客船「千鳥九」(100総トン)を全溶接で建造する。この頃より民間造船所の小型船で全溶接のものが出はじめる。*26[日]

1931 最上バラバラ事件
 呉海軍工廠で建造した巡洋艦「最上」の、公試連転時に艦尾推進器付近の振動の激しい箇所の溶接部で亀裂が発生する。亀裂数は少なかったが、最上バラバラ事件とまで呼ばれ、振動などで繰り返し応力を多く受ける箇所では、溶接構造は不適当とする機運が高まる。*20[日]

1931 橋梁の補強工事
 奥羽本線檜山川橋梁で、はじめて溶接桁を使い補強工事を行う。続いて東海道本線安倍川橋梁などでも同種工事が行われ、1940年までには1,300連のプレートが溶接で補強される。*20[日]

1931 自動車での点溶接機
 この頃、国産の点溶接機が日本自動車、共立自動車、目産自動車に納入される。*20[日]

1931 装甲車の溶接
 92式重装甲車を世界に先がけ外板鋲接を溶接とし、石川島造船所で試作する。*20[日]

1931 鎔接協會の再発足
 1926年に大阪で発足した「電気鎔接協會」と少し遅れて東京で発足した「鎔接研究会」が、共に大阪帝国大学内に本部を移し、「鎔接協會」となる。今日の「溶接学会」である。*20[日]

1931 鎔接協會誌の発行
 鎔接協會から「鎔接協會誌」が定期的に発行される。1945年には戦争激化に伴い一時体刊するが、戦後は「熔接學會誌」となり今日に至る。*20[日]

1932 建築溶接の規定
 英国で、B.S.S.(BRITISH STANDARD SPECIFICATION)538を制定し、建築での溶接を規定する。一方、日本ではこの年に建築条令の一部改正があり、地方長官が認めれば市街地建築物で、補強程度の構造部位での溶接が許可されることになる。早速この年に大阪大丸の増築第二期工事、日本銀行の鉄骨構造にアーク溶接が適用される。*20[日]

1932 鉄橋の溶接
 三菱神戸造船所が、全長436Mの手取鉄橋を溶接で補強し、大型橋への溶接適用で有名となる。*26[日]

1932 電車の溶接
 東横電車1000形の台枠を全溶接で製作する。当時は、客車よりも電車のほうが溶接化が進んでいたとされている。*20[日]

1932 溶接技能検定
 海軍で溶接施行法試験による技量検定が、はじめて行われる。*33[日]

1932 アーク光の影響
 溶接協会誌(1932-8)で平田実の「電気鎔接光線の人體に及ぼす影響」が発表される。これは溶接アーク光が人体に悪影響を与えるとする当時の風説を否定した、安全性についてのはじめての論文である。[日]

1932 溶接の技術講習
 国鉄で溶接技術向上のため大宮、大井、小岩井の三工場の溶接工8名を、横須賀海軍工廠に出張させ40日間の溶接講習を受けさせる。*20[日]

1932 溶材商組合
 全国溶材組合連合会が発足する。業者間の親睦、溶接災害防止上からの官庁諮問に対する答申、業者側からの陳情などをまとめることになる。*20[日]

1932 原子水素アーク溶接機
 芝浦製作所が海外文献をたよりに、原子水素アーク溶接機をはじめて国産化し、薄板や非鉄金属の溶接に適用する。*20。[日]

1932 全溶接鋼橋
横浜市の水道管橋が、はじめての全溶接鋼橋として製作される。続いて、1933年の川崎市の昇開橋、1935年の瑞穂橋や東京田端駅近くの田端大橋などが、代表的な溶接鋼橋となる。*20[日]

1932 圧力容器の溶接
 三菱長崎造船所が、石油工業用の圧力容器として、はじめて溶接構造を採用した日本石油横浜精油所向け石油反応室3基を、交流アーク溶接機を使い施工する。*20[日]

1932 溶接法令
 事故多発に伴い大阪府令の工場取締規則第88号「瓦斯鎔断工場取締規則」が公布される。次いで1936年に警視庁令「アセチレン鎔接取締規則」が出る。なお、1930年から5年間で溶接に関連する爆発災害は、東京地区で97件あったとされている。*20[日]

1932 溶接技能検定
 国鉄で「電弧鎔接工資格検定試験要領」が作成され、同年6月に第1回の試験が実施される。*20[日]

1933 自動溶接機
 これまでの裸ワイヤによる自動溶接機に対して、被覆ワイヤでのスリテイング・へッド型の自動溶接機が市販される。これは外側を被覆したワイヤを便い、ワイヤ送給時に回転カッターで被覆剤の一部を削り取り、その箇所から通電する方式のものである。*19[米]

1933 ビルの溶接
 19階建のダラスパワー・アンド・ライト社のピルが全溶接で建てられる。これは当時として世界で最高の溶接構造物である。*26[米]

1933 国産溶接心線
 これまで国内で使用されていた溶接心線は、はじめはスエーデンから、後には米国からの輸入に頼っていたが、この頃から八幡製鉄所で製作されるようになる。*20[日]

1933 国産アーク溶接機
 電気溶接機の需要が増加し、大手電機メーカも参入する。この年での主なるメーカとしては、大阪電気、富士電機製造、川崎造船所、芝浦製作所、目立製作所、三菱電機、帝国酸素、東洋電気熔接機、佐藤電気工業所がある。翌年には大阪変圧器が加わる。*13[日]

1933 発電機の溶接
 関西共同火力での発電機のフレームが全溶接で施工される。*20[日]

1933 大型艦での溶接歪み
 大型艦で本格的にアーク溶接を多用した潜氷母艦「大鯨」が進水する。しかし、溶接歪みが多く船体の直線性が保てず、進水後にドックに入れ船体をガス切断で三分割し、その箇所は鋲で再接合している。溶接工作への不安感が高まる。[日]

1933 溶接研究会
 日本学術振興会に第四小委員会が設けられ、金属工業における新興技術としての溶接の研究推進が行われる。また、内閣資源局発布の国家重要研究事項に溶接が含まれる。*23[日]

1933スタッド溶接
 輸入したスタッド溶接機を使い、黄銅のスタッド溶接が、造船所などで使われるようになる。*20[日]

1933 溶接技能検定
 船舶安全法の鋼船規則で「鎔接者は承認試験に合格し、その所属工作種類に対して熟練したる者なるを要す」と規定する。しかし、この試験が実際に行われたのは1943年頃からだと云われている。*20[日]

1933 溶接講習会
 鎔接協會主催の第一回夏季溶接講習会が大阪帝国大学で開催される。*33[日]

1934 鉄骨の溶接
 十合、松阪屋、大鉄などのデパート建築で、鉄骨溶接が採用される。これに先立ち、大阪府は建築溶接工の技量検定試験を行っている。*23[日]

1933 橋梁の溶接
 横河橋梁製作所が、全溶接で昇開橋(径間21M)を全溶接で製作する。これは全溶接大型橋梁としては、当時世界ではじめてのものとされている。*26[日]

1934 レールの溶接
 東海道本線平塚付近の貨物線で試験的に、酸化鉄系の被覆棒を使い、I開先突合せでレール継ぎ目をアーク溶接で施工する。*20[日]

1934 食堂車の溶接
 車両メーカは、米国での調査結果などに刺激されて、溶接を多用するようになる。この年に国鉄小倉工場で製作された食堂車は、外観からは鋲が一本も見られないものとなる。*20[日]

1934 アルミの国産化
 日本沃度が、長野県大町で国産アルミニウムの工業化に成功する。*16[日]

1934 X線検査の適用
 三菱長崎造船所が、ドイツのザイフェルト社(SEIFERT)から20万ボルト定置式X線装置を輸入する。そして、翌年には米国ゼネラル・エレクトリック社の20方ボルトの装置も輸入し、共に溶接継手に適用をはじめる。[日]

1934 溶接学校
 東京杉並に私立の「東京電気鎔接教習所」を岩田英一が創設する。わが国はじめての電気溶接専門の学校である。1936年に東京代々木に移転し、校名を「高等電気熔接学校」に改名する。本校は1945 年の東京大空襲などで閉校するまでに総数約5,000人の卒業生を出す。*20[日]

*と数字のある参考文献は1990-文末にまとめて掲載しています。

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