溶接の歴史

紀元1年〜1600年

紀元1年から1600年(慶長5)まで
 技術先進国では農機具、武器への金属利用が進む時代です。一方わが国では、海外の窓口は広く、渡来技術者や遣唐使などの留学生が持ち帰った技術が加わり、金属加工についての技術レベルも急速に向上する。そしてこの時代の終わり頃には鍛造品の代表格である刀などは、輸出できる程度にまでなりました。

31 鋳鉄製造器具
 この年に出版された書物に、農機具鋳造用の炉と送風用ふいご、動力伝達用ベルト滑車などについての記述がある。*1[中国]

400 銅鐸の補修
 この頃のものと推測される、倉敷市粒江松山、徳島市入田町安都真の2ヶ所で出土した銅鐸に、鋳掛け補鋳されたものがある。*9[日]

500 金のろう付
 この頃のものと推測される、福岡県宗像郡大島村沖の島の、7号祭祀跡から出土した金の指輪には、装飾用として金の小片がろう付されている。*8[日]

642 贈答品の鉄
 「日本書紀」のこの年(皇極元年)の記に、蘇我蝦夷が百済の使者に、良馬一頭と鉄20廷を与えたとある。これは、わが国での鉄についてのはじめての記述である。*6[日]

660 銅のろう付
 「日本書紀」に記載されている。中大兄皇子が水時計を設置したとされている場所から、直径9・/TD>o長さo長さ15Mの、銀ろう付した導水用銅管が出土する。したがって、当時すでに実用品に硬ろうが使われていたことになる。*9[日]

674 銀の産出
 「日本書紀」にある、この年(天武天皇3年)の記述に対馬国佐須奈から銀が産出したとある。*8[日]

747 奈良の大仏
 百済からの渡来技術者を責任者に、大仏(約500)の鋳造がはじまり、天平勝宝4年(752)に完成し開眼供養する。当時の実物はなく建造方法も不明ですが、わずかな記録より分割鋳造後に数年かけて仕上げをしたとしている。「東大寺要録」にある使用材料の白鑞(約8.5)の消費量の記述から、湯境や鋳損じなどの欠陥補修に、ろう付が多く使われたであろうことが推測されている。*3
 当時のろう付は、ろう材料に白鑞(しろめ:錫と鉛の合金)をフラックスには硼砂か松ヤニが使われている。*8[日]

900 日本刀
 300年頃に百済から渡来し、漢鍛冶と呼ばれていた刀鍛冶グループは次第に実力をつけ、この頃にはわが国での造刀技術はほぼ完成したとされている。*10[日]

1252 鎌倉の大仏
 「吾妻鏡」の建長4年の頃で「深沢の里に金銅八丈釈迦如来像を鋳始め奉る」とあるのが、鎌倉大仏(121)についての唯一の記述で、その他の工事関係の記録類は全くない。しかし、奈良の大仏と異なり実物が現在しているので、1M2程度の鋳物のブロックを作り、それを組み合わせ、鋳掛けも併用する瓦吹き工法で建立され、その継ぎ目が鋳繰り技法で処理されていることはわかっている。*11[日]

1288 大砲の製作
 世界ではじめて大砲が中国で製作される。製法についての記述はないが、大砲としては比較的小さなものである。これについては、10年以上前から製造されていたとする説がある。*15[中国]

1400 銃の製造
 この頃に、火薬が中国からアラビア経由でヨーロッパに伝わり、小銃・火砲が製造される。*17

1414 ゾリンゲンの刃物
 ゾリンゲンの剣身が、狼剣と呼ばれ、ヨーロッパで有名になるのは、この頃からである。その原因は親方ウオルフ(WOLF)の技術力のためだとされている。*5[独]

1451 日本刀の輸出
 室町時代の中国との貿易には、日本から硫黄・銅などと共に、日本刀が重要な輸出品になっている。この年、将軍義政の宝徳3年には太刀9,500把、長刀416把、槍51把が輸出されている。*9[日]

1543 鉄砲の製造
 ポルトガル船が種子島に漂着する。鉄砲伝来である。一年後には、国産化できるようになる。銃は三分割された部分を赤熱鍛接する。銃身は箸ほどの冷たい鉄棒を芯にし、これに赤熱鉄を巻き付け鍛える。芯を抜いた後に鋼錐を通し、回転させて内部を磨くとある。砲身端部の栓は、初期にネジの知識がなく、ろう付や鍛接で行ったために、暴発する銃もあったとされている。*9[日]

*と数字のある参考文献は1990-文末にまとめて掲載しています。

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